香川県東部の東かがわ市は、日本の手袋産業の中心地です。ここに日本の主要メーカーのほとんどが集まっており、総合すると日本で作られる手袋の約 90 パーセントを生産しています。この地における手袋産業の歴史は、1888 年にまで遡ります。この地出身の元僧侶、両児舜礼(1853–1891年)が、新婚の妻と共に大阪に移り住み、そこで彼女を養うために手袋製造業を始めたのが始まりとされています。舜礼が 39 才で早逝した後、従兄弟の棚次辰吉(1874–1958 年)がこの事業を引き継ぎました。

東かがわ周辺の地域は、伝統的に製塩業で生計を立てていましたが、1800 年代後半には衰退の一途をたどっていました。人々は苦境に陥り、地元の村長は大阪を中心に事業を行っていた棚次に助けを求めることにしました。この手袋職人は、地元に事業を移転することに同意し、1899 年、両児舜礼の未亡人と共に現在の東かがわ市のある場所に新工場を設立しました。彼らの事業は成功を収め、棚次は、西洋の技術や先進的な機械を導入することで積極的に事業を拡大し、その過程で 24 件もの世界特許を取得しました。


第一次世界大戦は、日本の手袋産業の起爆剤となりました。当時の手袋産業において二大生産国であったイギリスとドイツが戦争に奔走するなか、日本の工場には世界各国から軍事用手袋の注文が殺到していました。東かがわ市の手袋産業は栄え、後の世界恐慌や第二次世界大戦などの苦難にも耐えることができました。

1950 年代以降、朝鮮戦争や戦後の高度経済成長に後押しされ、日本は世界最大の手袋生産国となりました。その栄光の日々は遥か昔のことです。

おおよそ130年という長い年月のなかで、時代によって変わるニーズに応えてきた手袋のまち。現在では、商品の多様さ、品質の高さなどから、国内はもちろんのこと、世界でも屈指の手袋総合産地として知られるように。

その生産数は、全国生産の約90%。

東かがわを中心とするこの一帯は、現在、日本唯一の手袋産地であり、日本国内で生産される手袋のうち、約90%以上の生産量を維持し続けています。手袋産地として長く発展している裏側にあるのは、創成期から変わらない「チャレンジ精神」。時代のニーズに適応しながら新しい分野に挑戦していく姿勢こそが、変わりゆく時代のなかで常にシェアNo.1を誇る理由です。

おおよそ130年、手袋といっしょに。

大正時代、手袋産業の中心であった大阪手袋株式会社縫工部の作業風景

明治時代 、手袋産地として歴史がはじまり。大阪でメリヤス手袋製造を家業とした両児舜礼師と、その遺業を継ぎ、故郷である松原村の教蓮寺境内に手袋製造所「積善商会」を開設した棚次辰吉翁の両名によって、香川・東讃地区での手袋製造は、スタートしました。

着実に地域に定着していった手袋製造業は、大正3年に勃発した第一次世界大戦をきっかけに産業としての基盤を確立。その後、太平洋戦争の終結により復興を目指した手袋産業は、香川県を代表する産業に成長してきました。その後、昭和30年代の神武景気、岩戸景気と大型消費ブームにのって世界一の手袋産地に。

昭和50年代からは海外へと生産工場を移すなど、規模を拡大していきました。

海外との取り組み

1978年の後半から、中国で改革開放政策が始まり、80年代 高度経済成長期と重なり日本の企業はこぞって中国投資を行った。その例にもれずグローブ産業もまた、海外への生産拠点確保へ動いていった。

高度成長がつづくとともに日本人の生活が向上し、労働集約型の産業に人が集まりにくくなっていた。このまま行けば、事業を続けようにも、やがて肝心の担い手がいなくなる。遠からずメイド・イン・ジャパンが成り立たたなくなっていくのは明らかだった。

そんな危機感と、営々と積み上げてきた貴重な日本の技術ではあるが、それを求める国の人たちに惜しみなく供与して、これまでと同様に製品の安定供給をはかり、現地の方々にはそれを修得することで生活の向上に生かしてもらうほうが遥かにいいのではないかという想いから


いわば日本の知見を活かしたプロデュースド・バイ・ジャパンを胸に海外との取り組みが拡大

今では、アジア諸国への技術指導の結果 多くの国でグローブが生産されるようになっています。

88 projectも、日本生産だけではなく東かがわの職人による指導、設計を日本国内で行うなど海外生産の取り組みにおいても品質と想いを込めたものづくりを行っています。